この言葉は鈴木大拙の本で知ったのだが、菩薩が仏になる時に授かる儀式と理解していた。
高野山で朝の御勤めの後に灌頂を語っていたが、私の理解していた意味と違うような気がした。
灌頂という言葉は、過去に私は飲み屋でお金を払う時に、
お勘定(おかんじょう)という時に使っていたが、これも意味が違う。
高野山の宿坊で帰る時に、見送りしてくれた若い御坊さんに、試しに灌頂は受けたのか?と尋ねてみた。
人を見かけで判断するのは、正に分別である。若い僧侶は、灌頂の儀式として僧になる時に水を注いで頂いたと
真剣に答えてくれた。もちろん、彼に悪気はない、冗談でもない。
私も間髪入れずに、宿坊の宿代のかんじょうは帳場で済ませたよ言って見たけど、キョトンとしてる。
私の使う勘定、彼の使う灌頂は意味が違い、私の理解の灌頂も違うのである。
真言宗では灌頂は仏と縁を結び、頭上に智慧の水を注ぐ事を意味するらしい。
菩薩が仏の近づく悟りが開けた事を認められる事ではないらしい。
正に話し言葉は生き物で、言霊の意味を理解して聴く必要がある。
良い例が
般若も、鬼の様な形相で使う事もあれば、尊い智慧として使うことある。般若心経の本来の意味である!
本来はサンスクリット語で、中国で漢字が当てられ、日本では本来の智慧とはかけ離れた意味で使われる。
口から発せられる、空気の振動である言葉、その本質である言霊を受け止める心が本質である。
言葉を理解するのではなく、言霊を直覚するのが大切である。
今日も生きてる。