梅雨である、今日も小計は雨降っている☔️
ここで暮らしていると頭で思考する事、思案することが少ない。最近で思案したのはバイクの修理を頼むか?自分で修理するか?などたわいもない事である。現役で働いている時には、毎日 頭を使って思考を巡らせ思案して判断して仕事をしたきたのかと言うと?
全くそんなこと無かった事が分かった。先日のバイク修理と同じ様な判断しかしていないし思案していない。メリットとデメリットとか、達成できるか?出来ないか?、利益か不利益、利益大きい、不利益が小さいなどの、分別により判断しているから全く同じである。
那賀川の流れる音、雨の水音、鳥や虫の鳴き声、木々の成長を見て小計で暮らしていると、頭で分別を用いて思考する必要がないからだと気がついた。
雨は水害になろうが梅雨には降ってくる、よって川は増水して魚釣りなど出来ない、朝になれば鶯は囀り、夏が近づき夜になれば虫が泣き出す。庭の雑草も雨の水分で力強く成長する。向かえの杉の山も緑が深くなる。この自然は無心であり無分別である。無分別が身近にある事で分別が理解できた様である。
分別だけで生きてきたこれまでと、私は何も変わらないのであるが、
しかし、今は無分別である。
これまでは、知識とか情報を脳で記憶して、思考する事が人間の最大の能力と思っていたが
しかし、違っていた様である。
当然、私は知能指数も人並みで、思考という点では人並み以下であった。思考能力で人を分別してきたのかもしれない。
今は思考力ではなく、脳の思考よりも人間の大切な能力は思考力を捨てて、無心に生きれるかだと思っている。
脳に記憶する学習よりも、心を無念にする修行が必要であると思う。
分別の無分別が少し見えてきた気がする。
今日も生きてる。