初めて読んだ時よりは少し理解ができたが、
恐らく書いた本人 鈴木大拙も読者が禅を理解できると思って書いてないのだろう。
言語も文章も、自身の考えを表現して言葉になり空気の振動として自分を離れる、文字も文章になり活字として表現される、これも自身から外え出て行く。
これらを聴いた人、読んだ人が、様々な状況や経験、知識を持ってその人の状況で理解する。
言い換えれば受け手の勝手な理解で終結したり、探究されるだけである。
送り出した側の真意を汲める事は不可能だろう。
この本の中で、彼は多くを語りすぎた、タタターがかなたに行ってしまったみたいな事を書いてる。
言語、文字で真意を伝えるのは難しいようである。
しかし、人間は言語、文字で自分の考え気持ちを伝えた気持ちになる。不思議な生き物だ!
壊れていたベッドをロープで治して🪢みたよ、これでテラスでノンビリ出来る。
今日も生きてる。